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2006年5月

2006.05.28

最後の3日間(5)

私は自宅に戻り、前日から兄に開始された点滴についてネットで調べ、シャワーを浴び、少し眠ることにした。

午前10時26分。携帯が鳴った。父からだった。

すっかり深い眠りについていた私は飛び起きて、電話を耳にあてた。

長男が泣きながら兄の名前を叫ぶ声が聞こえた。

必死で、必死で車を運転した。お兄ちゃんは死なないと思った。お兄ちゃんの笑う顔を絶対にまた見るんだと思っていた。

病室に入る。父が〝ごめん、だめだった。逝ってしまった〟と兄のベッドの横にひざまずき泣いていた。

兄に私は叫んだ。でも叫んでも叫んでも、兄は目を開けてくれなかった。

みんなが兄のベッドのまわりにひざまずき、兄の体をただひたすらさすっていた。

〝がんばったな、よくがんばったな。えらかったよ〟と言いながら。

10時35分。兄は逝ってしまった。

私が自宅に戻ってからも兄の状態は変わりなかったらしい。ただ痰がつまるので看護士に吸引をお願いし、その吸引の時に状態が急変したらしい。兄は苦しむことなく眠りについた。ほんの数分の出来事だった。

長男が〝俺が呼びかけると、あいつ反応するんだ。だから何回も呼び続けたんだ。だって呼びかけると反応するから...〟と何度も言っていた。

私のお兄ちゃんが逝ってしまった。私の大好きなお兄ちゃんが逝ってしまった。

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2006.05.16

最後の3日間(4)

4月15日の朝。回診の時間になった。

私達家族はいったん廊下に出ることになる。担当医師は兄に〝家族の方、みなさんいますからね〟とだけ話し、病室から出てきた。医師たちが病室から出てこないうちに兄の大きな声が聞こえた。

〝帰るぞー〟姉が急いで病室に入り、兄の側に行き〝え?何、どうしたの?〟と聞くと兄は姉の方へ手を伸ばし、もう一度はっきりと〝俺達、もう帰るぞ〟と言った。

この日も、姉、父母、長男、私が病院を離れることはなかった。出来るだけ交代で仮眠をとったりしながら、兄の側にいた。兄の状態に大きな変動はないまま、夜を迎えようとしていた。ただ、明らかに先日より私達の問いかけに対する兄の反応は少なくなってきていた。尿量も急激にこそ減っていないものの、色も濃くなってきていた。

この日の夜、私は控え室で2時間ほど仮眠をとった。その間、姉は兄に兄の大好きな〝サザン〟の曲を聞かせていた。すると兄は一緒に鼻歌を歌いだしたという。明け方3時過ぎ、仮眠をとり病室に戻ると姉がそう言って笑っていた。そして兄は曲を止めても、〝あ~あ~♪〟と何か歌っているように声を出していた。私と姉が〝疲れるから、少し休んだら〟と何度言っても兄は歌うのを止めなかった。

朝5時になろうとしていた。この日(16日)私はシャワーを浴びにいったん家に戻ってこようと思っていた。父も飼い犬にえさをあげに一度家に戻ろうと言っていた。

兄の状態は安定しているし、家族の誰もが兄の快復を、奇跡がおきるのを信じていた。私は父と相談し、さっそく家に戻り、仮眠をとって午前中のうちに病室に戻ることにした。父も一緒に病院を出ると言うので、朝の5時、二人でいったん病院を出ることにした。

病室を出る数分前、私は兄の顔を覗き込んだ。すると兄は私に気づいたのか、とても優しく微笑んだ。私は〝なぁに?何がおかしいのー〟と兄に言った。今もこの時の兄の表情はしっかりと覚えている。いつもの優しいお兄ちゃんの顔だった。

私と父は病院を出ることにし、控え室に戻ろうとしたとき、初めて私は大雨が降っていることに気づいた。〝えぇ!雨降ってたんだ。帰るのやめようかな~〟と思う。すると今度は父のキーホルダーが突然ポトンと落ちた。父がキーホルダーを付け直す間も私はなぜか焦っていた。そして、やっとエレベーターの前にくると今度は〝携帯がない!〟と父が言い出した。私の焦る気持ちは治まらず、〝じゃあ、先に下りてるね〟と下で待つことにした。〝早く帰って、午前中のうちに戻ってこなくちゃ〟と、私はいったん家に戻った。

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最後の3日間(3)

一晩中、私達はほとんど寝ずに兄の側にいた。

少し熱があった兄の額をさわり〝熱いな〟と感じれば、冷たいタオルで冷やしてあげた。〝お兄ちゃん、冷たいタオルのせるからね〟と兄の額にタオルをのせると、兄は一瞬冷たそうな反応をした。

すでにまともな会話は出来なくなっていた。ただ側についている私達には兄が今寝ているのか、起きているのかはなんとなく分かっていた。

この日(14日)兄がしつこく問いかけてきたことがあった。〝あさっても?あさってもやるの?〟と兄が言う。顔の表情から、何かいやな夢でも見たのか、と思い私達は〝何もしないよ。もう痛いことも嫌な検査も何もしないよ〟と答えた。それが聞こえたのか、聞こえていないのか、兄はまた〝あさっては無理だ、無理だ〟と言っていた。

私が顔を近づけて懸命に話しかけても、兄が私を認識しているのかは判断するのが難しかった。でもこの日、兄のすぐ横に座る姉に兄ははっきりとこう言った。〝ごめんな、○○(姉の名)、ごめんな、○○〟とはっきりと2回兄は繰り返した。目も見開いたまま、意識もなくなってきている兄が姉にそう言った。

翌日(15日)の明け方、外が次第に明るくなってきた。

14日の夕方頃から38度ほどあった熱も下がってきた。兄の状態は安定していた。顔色も良く、呼吸も穏やかで、血圧も昨日よりあがっていた。

〝このまま、快復するんだよね、パパ。先生の言ったことなんてあたってなかったね〟と姉が言った。

ここまできても私達は兄の快復を信じていた。ずべての思いを〝生きる〟ということへ向けていた。父は兄の快復を信じて、今後1ヶ月の家族の付き添いのスケジュールを考え出した。私も姉も長男も兄が治ることしか話さなかったし、考えていなかった。

周りから見たらそんな私達の姿は、もしかしたら哀れだったのかもしれない。でも、兄本人が生きようとしか考えていないのに、一番側にいて兄を支える私達が諦めるわけにはいかなかった。

朝がきた。とても長く感じた昨夜だった。兄は生きている。兄の手を握り、私は涙が止まらなかった。〝お兄ちゃん、朝がきたよ。もう少しで先生、回診にくるからね!〟と私が言った。そして姉が〝先生来たら、ピースサインでしょ?〟と兄に話しかけると、兄は酸素飽和度測定のためにコードをつながれた左手を少し上げ、ピースサインを作った。

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誕生日。

今日、5月16日は兄の誕生日。亡くなった日からもちょうど1ヶ月がたつ。

この1ヶ月はとても、とても長く感じた。兄が本当にいなくなったことを少しずつ思い知らされて、心の中で〝何とか生き返らないかな〟と自分でも頭がおかしいかな?と思って苦笑いしたりする毎日だった。兄が病気になったこと、37才の若さで逝ってしまったことは事実でどうしようもないんだけど、毎日必ず思うのはただ〝会いたい〟ということだけ。会って普通に話がしたい。顔をくしゃくしゃにして笑う兄の顔を見たい。火葬場にも行って、兄の骨も拾っているしそんなことはどうやっても無理だと分かってるのに。

お兄ちゃん、誕生日おめでとう。今、笑ってるかな。

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2006.05.14

最後の3日間(2)

夜10時頃、長男が病室に到着した。以前からこの日、長男はこちらに来る予定になっていた。

長男には兄の様子を毎日メールで伝えていたものの、側にいることができないのがとても辛かった長男は泣きながら私に電話してきたこともあった。兄が闘病生活に入ってから、弟の病を必死に治そうとする長男の行動に私は感動し、元気づけられた。この日も私のメールでしか兄の状態を知ることができなかった長男はいったいどんな気持ちで病室に向かっていたのだろう。

長男は病室に入るなり上着を脱ぎ、私達には目も向けず兄の足元に座り〝よーし!○○(兄の名)!お兄ちゃん来たぞ。大丈夫だからな!〟といつものように足のマッサージを始めた。この夜、兄の友人も病院に駆けつけてくれた。

兄は市立病院に入院中は、家族以外の人が病室に入るのをずっと拒み続けていたので、兄のことを心配し、見舞いに行きたいと言っていた友人が来るのは初めてのことだった。

兄の友人2名がベッドの側に来るなり、兄の表情が変わった。その表情は柔らかく、嬉しそうな兄は友人に〝今日仕事は?〟〝大丈夫だから〟と話かけた。

それまで、ほとんどしゃべらず、ただひたすら必死に呼吸をしていた兄のその姿を見て、私たちは驚いた。そして姉が〝だから、もっと早く来てもらえばよかったのに!意地はってるから。これからは毎日お見舞い来てもらうから!〟と言った。兄は〝俺、怒られちゃったな〟とでも言いたげに友人の方を向き、子供のように微笑んだ。そして兄の好きな競馬の話や車の保険の話などで病室の中に笑い声が響いた。

友人達も帰り、真夜中の病室には姉、長男、父と母、そして私がいた。兄を囲み、それぞれに兄の体にふれていた。色んな話をした。

私達が兄について〝ほんとにまわりに気を使いすぎるよね。もっと自分のことだけ考えて治療に専念すればいいのに、人のことばっかり考えて〟と話合っていると、それを聞いていた兄は〝全くだ〟とポツリと言った。私達は〝何だ、聞いてたんだー〟と笑いあった。

〝悪ければ今夜には、、〟と医師に言われていたが、下降気味だった血圧も低下するどころか少しずつあがり、酸素濃度も97%くらいに安定していた。

手も足も兄の体はいつもと変わらず温かかった。

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最後の3日間(1)

4月14日。兄の容態が悪化しているのは明らかだった。

〝用事を済ませてから病室に行きます〟と姉にメールをすると、〝かなり具合悪いです〟と返信があり、私は用事は後回しに急いで病院へ向かった。病室に入ると目を半分開け、懸命に肩で呼吸をしている兄がいた。

この数日前から量も増えてきたモルヒネの影響もあり、兄の意識はだいぶもうろうとしていたし、血圧が低いのも気になっていた。〝お兄ちゃん〟と呼びかける私にも兄は何の反応もしなくなっていた。呼吸と呼吸の間があくので姉がその度に〝パパ、忘れないでちゃんと呼吸してね〟と声をかける。兄はその声に反応するように息を吸い、吐くを繰り返した。

私は父と母を電話で呼んだ。みんなで兄の側にいてあげなければと思った。午後2時頃、姉が子供達を迎えに病室を出た後、兄は突然正気に戻ったように言葉を発した。〝○○(姉の名)は?〟私が〝今子供達を迎えに言ったよ〟と告げる。そして〝○○兄(長男)も今夜来るよ〟と付け加えると兄はホッとしたように〝みんな集まってくれるんだな、みんな来るんだな〟と言った。

兄の子供達が病院にかけつけた。すっかり痩せてしまった兄に子供達が〝パパ、パパがんばって〟と声をかけた。私は兄が愛する妻と子供達をおいて逝かない、逝くなずがないと改めて自分に言い聞かせた。

この日の夜7時。姉と私は担当医師からまたしても厳しい宣告をうけた。

医師の話はこうだった。〝下顎呼吸をしている状態なので、かなり厳しい状態です。このまま尿量も減っていき、血圧も低下していくことが考えられます。悪ければ今夜には亡くなることも考えられます。延命処置(人工呼吸)は勧めませんが、ご家族の希望は?〟と言われる。兄が亡くなることなんて微塵も考えていない姉と私は返答にただ困るだけだった。いくら医師にそんな話をされても、〝お兄ちゃんは死なない、絶対死なない〟という言葉だけが頭の中で繰り返されるだけだった。

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再入院、家族の愛(9)

4月に入っても今年は肌寒い日々が続いていた。

1日中ベッドに横になっている兄によく私は天気の話をしていた。〝今日は気温○○度くらいまでしか上がらないんだって〟〝桜の開花は○○日頃だって〟。。。私立病院に入院してからはテレビも一切みることがなかった兄に外の空気感を少しでも感じてほしかった。

病室にいる間、私達がしていることは兄の足裏のマッサージだった。最初は大学病院に入院中に長男が始めたのがきっかけだった。空手の指導をしている長男はつぼ押し専用の棒まで持ち込み兄の足裏や手のひら、そして腰などのマッサージを丁寧に行っていた。腰を痛がる兄に長男はちょっとした整体をした時もあった。〝あ~きもちいいな〟と兄が言うと、長男は〝こんなことで楽になんだったらもっと早くやってれば良かった〟と何度も繰り返しつぶやいていた。

そしていつからか私達も病室にいる間はマッサージをするのが当然のことのようになっていた。ある日兄は父に〝耳掻きして(耳掃除)〟と言ったそうだ。そのことを父は〝今度は耳かきしろって言ってきたぞ!仕方ないからめん棒でしてやったけど。あいつは昔っから耳かき好きだったからな〟と言って笑っていた。姉も父も兄も、病室にいる間は兄の体のどこかを触っていた。私は兄の大きい足をさすりながら、時々ポツリポツリと話かけた。ただうなずくだけだったり、そのまま気持ちよさそうに寝る兄の顔を見つめて、私は心の中で必死に何度もこう叫んだ。〝お兄ちゃん、絶対死なないでね〟

兄の足はいつ触ってもポカポカと温かかった。

4月10日。食事もほとんどとらなくなった兄は、おなかが苦しいと訴えた。便秘のせいでガスが溜まっているのか?それとも今度は腹水か?と私達は心配した。

何も食べないせいで急激に体力がおちていて、食べないから便も出ないしガスが溜まるのでは?と心配していた私たちは兄に〝少しでもいいから何か食べないとだめだよ〟と何度も話した。

そして4月11日、私に〝アップルジュースあったよな〟と言うので、私は冷蔵庫からジュースを出しストローをさして渡した。兄は冷えているジュースをごくごくと飲んだ。なんだ、少し調子でてきたな、と安心したのもつかの間、兄はこの後腹痛に苦しむことになる。医師より〝急に冷たいものを飲んだからでは?坐薬で便を出しましょう〟との指示があり、坐薬を挿入後おなかもすっきりした兄は腹痛も治まったようだった。

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再入院、家族の愛(8)

4月に入り、モルヒネを開始してからは呼吸困難になることもなく兄の状態は落ち着いていた。顔色も良く、血圧、酸素濃度、尿量も安定していた。調子が良ければ口数も多く、相変わらず〝暑い、暑い〟と言っていた。ただ、経口で再開した抗がん剤の影響で口内炎ができ、ますます食事の量は減っていった。これでは体力がつかないな、と私達は心配していた。

この頃は春休みの時期で、幸い私も長男も仕事柄、時間に余裕があったので病室にいる時間も多かった。長男は兄の病室の床に寝泊りしていた。姉は兄の仕事を代わりにするために付き添いをしながら、色々なところへ手続きに行ったり、今年小学校へ入る息子の入学の準備に追われていた。

兄は姉の忙しさを心配する一方で、姉にはいつも側にいてほしかったらしく、姉が病室にいないとイライラすることが多かった。そして私に〝○○(姉の名)は?何時頃戻れんの?〟と聞いてくる。〝仕事で○○さんのところに行ってるし、忙しいんだよ。でも○時までは来るよ〟と言うと、しばらくはおとなしくしていてもまた〝ちょっと電話してみて〟と始まる。私は仕方なく姉に電話をすることになる。

こういうやりとりが兄の入院中、何度もあった。そして病室に入ってきた姉に〝遅いぞ!〟とふてくされる兄はまるで子供のようだった。

4月3日。胸部レントゲンの結果、両方の肺に転移が認められた。以前は片方の肺のみだったのに、ガン細胞は私達をあざ笑うかのように兄の体の中で増え続けていた。担当医師には〝もって残り2週間程では。。〟と言われていた。それでも私達は最後の悪あがきだったのか、少しも諦めていなかった。必ず奇跡が起きるとだけひたすら信じていた。

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2006.05.13

あたり日。

毎週土曜日があたり日になっている。今日も線香をあげに兄の家に行く予定だ。

入院中も一人にされるのを嫌がった兄。病院に向かう私はいつも急いでいた。病室に入り、〝お兄ちゃん、来たからね!〟と報告する私は兄のホッとしたような顔を見ると安心した。今も兄の家に向かう時は何だか焦ってしまう。でも今は〝急がなくていいから、気をつけて来いよ〟と言っているような気がする。

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再入院、家族の愛(7)

モルヒネを開始して、兄の呼吸は酸素吸入も継続しながらだいぶ落ち着いてきた。モルヒネが体に回り始めると、日中でもうとうとする時間が多くなった。

ネットや本でがん治療について散々調べていた私達はモルヒネについても素人ながら知識があった。兄にはできるだけモルヒネに頼らないでほしいとお願いしたが、また先日のような呼吸困難になることを恐れていた兄は苦痛を感じるとすぐに看護士を呼び、モルヒネの注入(一時的に流す量を増やす)を頼んでいた。兄はモルヒネが開始されていることも、私達がなぜそこまで注射を拒むのかも分からなかったと思う。

モルヒネを開始した頃、兄は私達が中国から取り寄せたがん細胞を死滅させるという漢方薬を飲み始めた。大学病院にいたころから、抗がん作用のあるお茶や水、メシマコブetc,を飲んでいた。この漢方薬は飲んだ直後から体が熱くなるらしく、どんなに寒い日でも部屋の窓を開けさせられるくらいだった。額に汗をにじませ暑がる兄に〝体温の上昇によりガン細胞は死滅するんだから〟と励まし、漢方薬がガンを殺しているんだ、と私達は確信していた。漢方薬は何とか気力で飲んでいた兄だが、食事の量はほとんどと言っていいほどなかった。朝は調子が良いらしく、パンやメロンを食べるも午後からはほとんど食べることはなかった。ある日、私に〝団子食う〟と言うので、え?とテーブルを探すと兄の友人がお土産に買った団子が置いてあった。入院中は甘いものを好んで食べていた。メロンは常に冷蔵庫に入っていたし、カステラやイチゴなど。あんこも食べたいとよく言っていた。

モルヒネの影響でうとうとしていることも多い兄だが、意識はしっかりしていて尿の量や指先で測る血中酸素濃度の数値は常に気にしていた。病室にいる間私は何度も何度も〝おしっこ見て(量を)〟と言われた。胸水が尿として排出できればいいんですよと医師に言われていたのを覚えていたのだと思う。

兄の尿量は看護士にも〝ずいぶん出てますね〟と言われるほど多かった。これも漢方薬が功をなしているんだ!と思っていたし、きっとそうだったと思う。

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2006.05.12

再入院、家族の愛(6)

見ていられないほど苦しむ兄を私達はどうすることもできなかった。

やっと担当医師が病室にきて、兄の状態を診る。そしてその後、姉と長男が看護士に呼ばれて病室を出ていった。苦しむ兄は〝何してんの、早く何とかしてくれ!○○(私の名)、早くもう一回先生呼んできて〟と言う。

この時、姉と兄は医師から兄の病状について説明されていたので、いくら私がナースステーションに行ってもどうすることもできなかった。数分後、姉と兄が戻ってきた。そして医師が兄に〝注射流しますからね、これで呼吸も落ち着いてきますから〟と言った。看護士がすぐに点滴を持ってきた。そしてこの日からモルヒネの継続投与が始まった。

病室の外で長男から先ほどの医師からの話の内容を聞いた。〝この1週間がヤマだと思います。ここから快復するのは難しいでしょう〟というような内容だったと思う。

病棟の片隅で私にこの話をする長男が初めて肩を震わせ泣いた。〝あいつ(兄)はがんばってんだ。ほんとにがんばってんだ。でもこれが限界かもしれない〟と泣いた。

いつもどっしりとかまえ、兄の病気に関しても常に前向きだった長男が泣く姿を見た私は不安と恐怖に押しつぶされそうになった。

兄の本当の病名を知らない母も呼ばなければ、ということになりこの夜母は病院にくることになる。

母には〝たいした病気ではないけど、手術をうけた。でも快方に向かっている〟とだけ話していた。市立病院にも一度だけ見舞いにきていた。

兄のこの状態を知ったら、母は大丈夫だろうか?と不安もよぎった。しかし、病室に入ってきた母は大きな声で〝○○(兄)、お母さんだよ!来たよ!しっかりね、がんばるんだよ〟と声をかけ、兄の手をしっかり握り、自分の頬でさすっていた。やっぱり母親だ。自分の息子が苦しんでいるときの母親の姿を私はしっかり目に焼き付けた。

子供を主人の実家に残してきている私はいったん戻ることにした。病室には姉、長男が付き添っていた。父と母は病院の家族控え室に泊まることになった。

そして、その夜11時頃、長男からの電話で兄の状態が落ち着いてきたことを知らされる。

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再入院、家族の愛(5)

再入院後、1週間が過ぎようとしていた。退院の予定はたたないままだった。

兄はベッドから自力で離れることも難しくなり、大学病院での抗がん剤治療も中止することになった。そして市立病院の担当医師より、〝大学病院の医師と今後の治療をどうするか、相談してきてください。現在の状態も決して良くないのでできれば早めに治療方針を決めたほうがいいです〟と言われる。

そして、私達家族は病室に兄を残し大学病院の医師に会いにいくことになる。遠くに住む長男も帰ったばかりだったのに、急遽こちらに戻って医師との面談に参加することになった。

3月28日。この日はとても1日が長く感じた忘れられない日だ。

大学病院の担当医師とアポイントをとり、姉、父、私は約束時間の午前11時に間に合うように車で出発した。朝にはみんなで兄の病室に寄った。兄は冗談を言って私を笑わせた。今思えば、みんなが大学病院へ向かうことが兄は不安で寂しかったのだろう。

大学病院の受付窓口の前で長男とおちあい、腫瘍内科外来へと向かった。しばらく待ったあと、私達は診察室の中へ通された。

医師の話はまたしても思った以上に厳しいものだった。言葉を慎重に選びながら、私達に分かりやすく伝えようとする医師の表情は今でも覚えている。話の内容は次にようなものだった。

〝全身に飛び散るがん細胞です。播種、、というんですが。本人の望みを奪いたくはないので、経口で抗がん剤治療を続けようと思います〟

姉が余命を聞いた。医師は少し間をおき〝数ヶ月、、、でも急変することも考えられます〟と言った。

悲しい涙なのか、悔しい涙なのか。涙が次々とあふれて止まらなかった。長男が〝私達は最後まであきらめずに代替療法などやりたいと思っています。相談することもあると思うのでよろしくお願いします〟と必死で医師に伝えていた。

この日は朝から道路がひどく混んでいたせいもあって兄の待つ病室に戻れたのは、予定よりもだいぶ遅れて夕方になってしまった。急いで兄の病室に向かいドアを開けると看護士が立っていた。〝え?何?〟と入り口で立ち止まってしまう。看護士から〝呼吸が苦しいそうなんです〟と知らされる。姉がすぐに兄の側に行き〝パパ、どうしたの?〟と問いかける。兄はベッドに横たわり、ひどく呼吸が苦しそうだった。〝頼む、早く、先生呼んできて〟と訴えるも、ちょうどその時間担当の医師は手術中だった。

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再入院、家族の愛(4)

市立病院に入院後、兄は呼吸が苦しいということで酸素吸入をしていた。そして胸部レントゲンの結果、胸水が溜まっていることが分かり、胸水を抜く処置を数回にわたって行った。

大学病院を退院する直前も胸水が溜まり、抜いているので、この時胸に針を刺すのは2度目だった。胸水を抜いた直後は元気が出てきたように見えても、胸水はたった1日でまた増えていった。この頃、姉と私はよくこう話していた。〝胸水、何とかなんないかなぁ。胸水が溜まらなくなる薬とかないのかな。他の治療も順調に進まないよね〟ガンに有効とされる様々な治療法を調べていた姉と私はなかなか快方の兆しが見えない兄の病状にイライラしていた。

この頃、私は姉の言葉にハッと目が覚めたような気持ちになる。病院の食堂で姉と昼食をとっていた時のことだった。姉は〝私はね、パパ(兄)のガン細胞を全部失くすために治療をさせてるの。あと1年とか2年生きられればいい、とかっていう考えはないから、パパにもとにかくがんばってもらわないと〟と言った。

私が目が覚めた気持ちになった理由は、心のどこかで私は兄が少しでも長くいきてくれれば、と思っていて兄のガンを完全に治すということは難しいと思っていたから。それから、兄をそこまで愛して全力で兄の病と闘う姉の姿にだった。この時私は、兄は幸せ者だなぁ、と暖かい気持ちになった。

でも、私達家族が兄のガンと闘おうと必死になればなるほど兄の病状は次第に悪化していった。

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再入院、家族の愛(3)

せっかく退院できたのに、また入院することになり兄は落ち込んだ。

数ヶ月前までは仕事をバリバリこなし、飛び回っていた兄は闘病中、自分の仕事のことに関していつも話していた。病室に訪れた私に〝早く仕事してぇな~。お客さんたちのところに行って色んな話がしたい。復帰したら、この病気をネタにもっとお客さん増やさなきゃな!ガン保険には入っていたほうがいいですよ!って言ったら説得力あるよな〟と笑って話していた。

入院後数日間、気持ちの浮き沈みがあった兄の姿に私達家族はまた焦り、元気づけようと懸命だった。弱音ばかり言う兄に父は泣きながら、〝辛いのは分かる。でもお前のことは絶対死なせない、これからもっと楽しませてもらわなければならない。だから治すためにがんばってくれ!食事も少しづつでいいからとって、体力をつけてがんばろう!〟と言ったのを私も涙を流しながら聞いていた。

兄の病気を知ってから、兄の前で涙を流してしまったのはこの日が初めてだった。そしてこの翌日、私と父がいる前で兄は姉に必死にこう言った。〝○○(姉の名)、俺はおまえが耐えられるならこれから治療をがんばる。おまえが今本当に大変なのは俺が知っている。俺の変わりに知らない人に会って、気をつかって。。。おまえががんばれるなら俺もがんばっから。治すから!会社のお客さんも出来れば減らさないでがんばっていけるか?〟と。。。姉は涙を流し、うなずいていた。

この日、私達は改めて兄の病状の快復を信じた。兄は治る。何年かかっても兄は絶対治ると思った。

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再入院、家族の愛(2)

退院して自宅に戻って10日がたった。

自宅にいても横になっていることが多かった兄だが、その体で力をふりしぼり、確定申告の手続きに一人で出かけ、申告を済ませたというから驚いた。私達家族は、兄に早く体力が戻り、ガン治療の次のステップへ進ませたいと思っていた。抗がん治療が上手くいくこともそうだし、第4のがん治療と言われる〝免疫療法〟もぜひうけさせたいと思っていた。

免疫療法はまだ実施できる病院も少なく、保険もきかない。うけるとなれば、関東地区もしくは九州地区まで行かなければならないし、費用も100万~200万はかるくかかる。でも、姉も父も長男も私もお金のことなんて本当にどうでもよかった。治るならどこにでも連れて行こうと何度も話し合っていた。

3月20日。兄はおなかが苦しいということで、市立病院を受診する。

術後、傷の手当てとおなかに入っている管の処置で市立病院には通っていた。傷の手当ては毎日行わなければならなく、大学病院に時間をかけて毎日通うのは兄の体力を消耗してしまうということで、近くの病院がいいでしょうという医師の勧めと受診に付き添う姉にもそのほうがいいのでは、という家族の意見もあり、市立病院に傷の手当てに通っていた。この日の診察時はおなかの管の不具合で苦しくなったんでしょう。という医師の説明があり私達もガン細胞が暴れだしたわけではないことにホッとしていた。そして、2、3日様子をみるために入院することになった兄。すぐに退院するはずだったのに、このまま家に帰れないなんて夢にも思わなかったよね、お兄ちゃん。

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2006.05.11

再入院、家族の愛(1)

兄が退院した。

私はほっとしたのか疲れていたのか、兄を病院に迎えに行った日の夜から発熱してダウン。急性化膿性扁桃炎で39度の熱が3日も続いた。

兄の家には毎日でも行こうと思っていたのに、たくさん話もできると楽しみにしていたのに。。。1週間くらい兄の家には行くことを控えた。兄の体は免疫力も低下していて、風邪にでもかかったら命とりになることは知っていたから。

体調も回復し、兄の家へ駆けつけた。ソファに座っていた兄は、決して元気そうには見えなかった。〝お昼は出前をとろう!〟と兄が言い出した。私と兄が小さいころよく出前を注文していた食堂が兄の家の近くに越してきたそうだ。兄は〝○○(私)はいつもカツ丼だったよなぁ〟と言って何だか嬉しそうだった。両親は共働きだったから、私は家に兄と二人でいることが多かった。

小さい頃、兄は妹の私をかわいがる気持ちの裏返し?で、恐がらせては泣かせたり、嫌がる私にプロレス技をかけてきたりと、とにかくうるさくて天敵のような存在だったので私はしょっちゅう泣いては〝お兄ちゃんに泣かされたぁ〟と両親に告げ口していた。それでも、そうやっていつも私にかまってくる兄が今も昔も大好きだ。

この日、あいにく食堂は定休日だった。〝んじゃあ、絶対今度食べさせっから!〟と兄が言った。そして〝少し横になってくるかな〟というので、私と父は〝また来るね〟と言って、兄の家をあとにした。そしてこの数日後、兄は市内の病院に入院することになる。

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胃全摘手術とその後(5)

3月に入り、退院の話も少しずつ具体化していた。

通常、胃がんで手術をした患者は1ヶ月程で退院するらしいが兄は術後の経過があまりよくなかったので少し長い入院になっている。

そしてこの頃、抗がん剤治療も開始した。それまでお世話になった外科から腫瘍内科にうつることになったが、病室は今までどおり変わらずに抗がん剤点滴をうけることができた。そして退院後は通院で抗がん剤治療を続けましょうということだった。

しかし、念願の退院を目前に、兄の肺に水が溜まっていることが検査で判明し、その水を抜くための胸水穿刺を2度ほど行ったと思う。溜まっていた水は1.5ℓ以上はあった。まだこの時私は、この胸水が溜まることの恐さを知らなかった。

3月11日。色々な不安はあったものの、念願の退院が決まった。この日は〝先勝〟 午前中に家に帰らせようと思い、姉と父と私は病室に早めに到着した。

我が家にやっと帰れる嬉しさに張り切っているのかと思いきや、少しだるそうにベッドに座る兄がいた。姉が看護士に呼ばれ、病室を出ていくと〝何の話なんだ?俺も一緒じゃだめなのか?〟とひどく不安そうにしていた。姉が戻ってくると〝何だった?何の話だった?〟と兄は問い詰めていた。〝退院後の家での生活についてとか、食事のことだよ〟と姉が言ってもまだ納得しない兄に姉は〝家族の中にはまだ食事もきちんととれないのに退院させていいんですか?っていう人もいるからきちんと説明されただけだよ〟と言う。そしてその後兄も医師に呼ばれ、病室を出た。数分後、戻ってくると兄は明るい顔でこう言った。〝親父、いい話だった!胸のレントゲンも見せてもらったけど、快方に向かってるって医者が言ってたぞ〟と声を弾ませていた。

この後、私と父は兄のいないところで姉から医師からの話の内容を聞く。

医師からは〝長くはないので今帰れる時に退院しましょう。ご家族でいる時間を作ってください〟というようなことを言われたそうだ。これを聞いた姉は、必死で治そうとしているのに希望のかけらもないことを言われたと怒っていた。

それでも兄の退院は私達にとって嬉しい出来事だった。

大学病院での入院期間40日。兄は退院し、我が家に帰ってきた。30歳という若さで買った我が家、愛する妻と子供達との思い出がたくさんある家に。

この時もとにかく病気を治して、1日でも早く仕事に復帰しようと思っていたんだよね、お兄ちゃん。

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胃全摘手術とその後(4)

術後数週間がたち、食事も開始された。

兄は気持ちも少しずつ上向きになってきたのか、病棟を歩いたり売店まで買い物に行ったりして体を動かすことも増えてきた。ただし、せっかく食事が始まってもなかなか順調に〝食事をとること〟は難しかった。病院食はマズイと言って一切手をつけず、姉や父が兄の食べたいものを聞いて差し入れするという形だった。胃を全部とっているので食べる量も以前に比べればはるかに少ないし、食べ方にも気をつかわなければならない。時々、食後に冷や汗が出たり、苦しくなったりするダンピング症状が出ていた。

ある日私が病院に行ったときは、サンドウィッチが食べたいと言うのですぐに売店で買い兄に渡すと〝おいしいなぁ〟とパクパク食べていた。

術後、気持ちの落ち込んでいた時の兄と比べると、だいぶ元気になった兄を見るのが本当に嬉しかった。

痛がりで大げさ?な兄は入院中、よく看護士達を困らせていた。痛みもじっと我慢するほうではなく大騒ぎするタイプなので、当り散らしたりすることもしばしば。。。それを知った長男は〝ああいうタイプは(ガンが)治るから、心配ないな、あれくらいでいいんだ〟とよく言っていた。さらには寂しがりやな兄は病院に来た姉をなかなか帰そうとしなかった。医師や看護士からは、〝もう付き添いは必要ないんですよ〟と言われていても、何かと理由をつけては姉を病室に泊まらせていた。私達は姉の体のことも考え、〝甘やかさなくていいから、帰って休んで〟と姉に言っても、姉はわがままばかり言う兄の側に出来る限りついていた。

自分の体がどうなってしまうのか?という不安な状態が続く中で、兄はいつも姉を呼んでいた。それは最後まで同じだった。

そうだよね、病院に一人でいる時間は寂しかったよね。自分が一番愛する人に側にいてほしいのは当然だよね、お兄ちゃん。

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胃全摘手術とその後(3)

大学病院に兄が入院している間は、主に姉と父が付き添っていた。術後しばらくは姉が寝泊りしていて、入院期間の後半になると姉と父が交代で日中付き添っていた。それから遠くにいるもう一人の兄も多忙の中、数回見舞いにきた。

~私は3人兄弟の末っ子で兄が二人いる。長男とはひと回り歳が離れている。二人の兄は、男同士ということもあってか、大人になってからは頻繁に連絡をとったりすることも少なかった。でも長男は本当に弟思いで、兄も長男を誇りに思っていた。私達兄弟はそれぞれ結婚し、離れて暮らしていてもいつもお互いを気にかけ、特に兄達は歳の離れた末っ子の私の事を何かと心配し、可愛がってくれている。~

兄の術後の経過は決して良くなかった。

手術後、できるだけ体を動かしなさいと医師に言われても、傷の痛みのひどさで思うように体は動かせなかった。

ついこの間まで普通に仕事をしていた自分が突然重い病に侵され、こんな状況にいることがかなりショックだし、積極的に体を動かそうという気分でもなかったと思う。

この頃、術後の2~3週間は兄の気持ちの落ち込みも特に激しく、生きなければ!という気力が失せていってしまっているように見えて私達も辛かった。

私達はとにかく兄にやる気をおこさせようと躍起になった。〝ここは鬼になった気持ちで少しきつく言わないとだめだ!〟と話していても、実際に兄を目の前にすると、兄を気遣う優しい言葉しか出てこない。それでも姉だけは心を鬼にして兄を奮い立たせようと懸命だった。体を動かさないと治りが遅くなるから、、遅くなればなるほど兄のガンを治すための治療をする時間が少なくなっていくから、と姉は必死だった。

兄には術後の病状については本当のことを話していなかった。転移はあるものの、抗がん剤治療で治る見込みがあるからと伝えていたと思う。そのため、しつこく〝体を動かして。自分で何でもやらないと〟と言う姉と時々口論になっていたようだ。兄の性格はのんびりというか、楽観的といえばいいのか、闘病中も危機感があまりなくて、私達がいつもやきもきしていた。

私は必死に兄を治そうと躍起になる一方で、兄のそののんびりとした佇まいに時々ふっと気持ちが温まることがあった。

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胃全摘手術とその後(2)

1月31日。手術当日。

当初は緊急手術なのでいつ開始になるか分からないという話だったが、午前9時、思ったよりも早く兄は手術室に入った。そして手術が終わり病室に戻ってきたのが午後4時過ぎ。兄は7時間にも及ぶ大手術に耐えた。

この日、私は仕事を休み息子と実家で待機していた。母のそばにいなければならないと思った。兄の病気のことを何も知らない母はこの日もひどく辛そうだった。ただ青ざめた顔で私に〝本当に辛いんだ〟と何度もつぶやいていた。

兄の手術は無事に終わったものの、術後の医師からの話は思った以上に厳しいものだった。

〝兄のガンは予想よりかなり進行していて、腹膜などには飛び散っている(播種性ガンという)。出来る限りのことはしたが、余命は短ければ3ヶ月、長くても1年程度では...〟と話されたそうだ。

兄の病気を知ってから、私はガンについてとにかく調べまくっていた。インターネットで夜中までひたすらがん治療について検索し、本も探して読んだ。〝ガンが治った!〟〝末期がん患者が奇跡の生還〟などと見ると食い入る様にして読んでいた。

どんなに厳しい兄の病状を聞かされても、私は絶対に兄は治ると信じていた。兄に生きていてほしい。大好きなお兄ちゃんがいなくなるはずがない、とずーっと思っていた。

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胃全摘手術とその後(1)

1月30日、夕方。父と私が病院に到着した。

ベッドに座り鼻からチューブを入れられ、点滴をされている兄がいた。私を見つけた兄は悲しそうにじっと私を見つめていた。

ベッドの横に立った私に兄は〝肺と肝臓とリンパに転移だって。こんな話聞いたことあるか〟とすっかり弱気な声で話しかけてきた。

姉も父も私もとにかく励ますことしかできなかった。暗いムードにならないようにと私達は出来るだけ明るく振舞い、談笑すると〝そうやって○○(姉の名)と○○(私)とおやじが話してる姿見るとほっとするなぁ〟と涙ぐんだ。

姉はこの夜病院に泊まり、父と私はいったん帰ることにした。

手術当日、私は母のそばにいることにし、父は朝早く電車で病院に向かった。

この日の朝、病院に向かう途中に父は私に電話をかけてきた。涙でほとんど聞き取れない声で〝手術は絶対成功するから!祈っててな!〟と。

手術前夜は生まれて初めて眠れない夜を過ごした。

〝兄は大丈夫だ、大丈夫...〟と何度も心の中で繰り返し、午前1時過ぎにやっと眠ったはずが夜中3時に目が覚め、そして朝までひたすら兄の事だけを考えていた。手術が成功し、兄の病状が快方に向かうことだけ祈った。

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発病から入院まで(3)

1月下旬。大学病院に検査のため週に2、3回通う日々が始まる。

兄の家から大学病院までは車でおよそ1時間。手術を前に体中を調べなければならない。私はガンが転移していないようにとだけひたすら祈った。

1月30日。朝から腹痛を訴えていた兄はこの日も自分の運転で大学病院へ向かった。運転が苦手な姉には任せたくなかったらしい。しかし、途中あまりの激痛にやむなく姉に運転をかわってもらう。

そして、受診後緊急入院。翌日緊急手術をすることになる。

検査の結果、腹痛は腹膜炎をおこしたためということが分かった。さらにこの日、思ってもいなかった兄の病状を知らされる。

ガンは肺、肝臓、リンパ節にまで転移していた。午後に姉から私の携帯に電話が入り、このことを知らされるた。姉は涙をこらえながら必死にそれを私に伝えてくれた。

そして、すぐに私は父に連絡し私と父は兄のいる大学病院に向かった。

この時、母には何も話せなかった。

その理由は、母は以前からうつ病を患っていること。そして不思議なことに兄のガンが発覚すると同時に母の病状が急激に悪化していた。この頃の母は1日中布団から出ないで顔もげっそりとやせていた。そのため姉からの連絡等もひとまず私のところに連絡が入り、それを私が父に教えるという形だった。

母には嘘をつき父と私は祈るような気持ちで兄のいる大学病院へ車を走らせた。

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発病から入院まで(2)

胃の不調を感じながらも、自他共に認める仕事熱心な兄は休むことなく保険代理店の仕事をこなしていた。今思えば独立してからの兄の仕事への情熱は異常なほどで、焦っていたような、今しか時間がないんだ、とがむしゃらになっていたように思う。

年末に向かい、仕事柄の飲み会や友人との旅行にも出かけていたらしい。

そして2006年、兄と私達にとって決して忘れられない年が明けた。

お正月も胃の不調は続き、姉(兄の妻)の母に顔色の悪さを指摘され、再三にわたって胃カメラをのむように勧められた兄はさすがに自分でも鏡に映る青白い顔に驚いたのか、やっとのこと胃カメラをのむため市内の胃腸外科を受診した。

病院を受診するとすぐに胃カメラの検査を行う。結果は後日ということで病院をあとにしたが、数日後病院から呼び出しの電話があり、兄と姉が病院に行った。そして医師から胃がんであることが告げられた。

1月16日。胃がん発覚。

〝初期ですか?〟とたずねる兄に医師は〝初期ではない。いずれにせよ、すぐに手術をしたほうがよい〟と話されたという。

確か、この日の夕方、私は父から電話でこのことを知らされる。

年明けからずっと夢見が悪かった私は嫌な予感に息が苦しくなったのを覚えている。

そして兄は早速大学病院への紹介状を書いてもらい、手術に向けてのあらゆる検査をうけることになった。

この頃、父と私が兄の家に行くと〝食欲もあるし、転移もしていないと思う!大丈夫だ。〟とこちらが心配しているのを察してか、明るく笑いながら話していた。

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発病から入院まで(1)

兄とは別世帯で暮らしている(お互い家庭があるので当たり前だけど)ので、兄の発病の頃のことはすべて姉(兄の妻)から聞いた。

兄は以前から(特に仕事を始めてから)胃の不調を訴えていた。胃薬も手放せなかったようで、実家にきたときも〝胃薬ある?〟とよく両親に聞いていた。姉からはもちろん、まわりからは何度も病院受診を勧められるも、大の病院嫌いで臆病な兄は〝大丈夫、大丈夫〟と言ってそのまま時間が過ぎた。

そして去年の9月。まわりの〝受診しなさい!〟のしつこさ?に負けて兄はやっと内科を受診した。そしてその時は「胃潰瘍」と診断される。

内科を受診した、という時点で運が悪かったのか(本来なら胃腸外科)、胃カメラを飲むこともなかったので、おそらくこの時すでにガンに侵されていただろうに発見できなかった。

この後まわりには〝胃潰瘍だったし、大丈夫だ〟などとのんきなことを言い、また病院から遠ざかってしまう。

しかしその後、病院から処方された薬を飲み続けるも、胃の不調は全く改善されないまま年末を迎える。

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2006.05.10

4月16日、10時35分。

先月、4月16日10時35分。大好きな兄が天国に旅立った。

胃がんという病気が発覚したのが今年の1月。たった3ヶ月で神様は兄を天国へ連れて行ってしまった。37歳だった。亡くなってからまだ1ヶ月もたっていないのが不思議な感覚がして、亡くなった直後の慌しい時間が過ぎてからは余計に兄のいない寂しさが募って苦しい。

年明けから悪夢を見ているような数ヶ月だった。

兄は結婚して12年。10歳の娘と今年小学校に入学した息子がいる。

結婚してから数年後、独立して保険の代理店をしていた。昔から人懐っこい性格で話もおもしろくて気も利くので、とてもこの仕事は向いていたと思う。

仕事の成績も県内の個人代理店の中でも優秀だったらしく、仕事にかける意気込みは妹の私から見ても感心するほどだった。

仕事も軌道にのり、さぁ、これからがんばるぞ!と張り切っていた兄を襲った〝ガン〟は、思った以上に手ごわくて、兄をそして私達を苦しめた。

でも、最後まで少しもあきらめなかった兄の姿と兄を懸命に支え続けた家族の姿を残そうと思う。

しかし、闘病中の兄の気持ち、そして姉(兄の妻)の気持ち、私達家族それぞれが心の奥底で兄の病気をどのように受け止め、感じていたかは私には分からないので、兄の闘病中の家族の気持ちは私の推測で書くこともあるかもしれない。でも、ただひとつ自信を持って言えることは、最後まで諦めず兄を支え続けた私達は、生前も今も変わらず心から兄を愛しているということだ。

※兄はもうこの世にはいないので、今ガンと戦っている方には決して希望がある記録ではないかもしれません。でも、ガンの症状だったり治癒までの経過は100人いれば100通りあります。絶対に絶対にあきらめないでください。

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