3.再入院、家族の愛。

2006.06.03

再入院、家族の愛(10)

腹痛は治まったものの、モルヒネも増量になり日中に会話をすることもだいぶ減ってきていた。
痰も自力で出すのが辛くなってきて、看護士に吸引してもらうことも多くなり、呼吸が苦しいと訴える回数も増えてきていた。

私達が病室にいると兄は〝足(マッサージ)やってな、気が紛れるんだ〟と必ず言ってきていたのに、この頃はそれも言わなくなっていた。
言わなくなったというより、意識がもうろうとし目を半開きにしたまま眠る兄が話すことなんて無理だった。
何も要求しない兄に、それでも私達はずーっとマッサージをしていた。
〝気持ちいい??〟〝痛くない?〟と問いかけながら。

この頃、〝このままお兄ちゃんと話せなくなるの?前みたいに会話がしたい〟と姉にメールを送った。姉に訴えても仕方がないのに、、、
この時の気持ちを誰かに聞いてほしいと思ったときにやはり思いつくのは姉だった。

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2006.05.14

再入院、家族の愛(9)

4月に入っても今年は肌寒い日々が続いていた。

1日中ベッドに横になっている兄によく私は天気の話をしていた。〝今日は気温○○度くらいまでしか上がらないんだって〟〝桜の開花は○○日頃だって〟。。。私立病院に入院してからはテレビも一切みることがなかった兄に外の空気感を少しでも感じてほしかった。

病室にいる間、私達がしていることは兄の足裏のマッサージだった。最初は大学病院に入院中に長男が始めたのがきっかけだった。空手の指導をしている長男はつぼ押し専用の棒まで持ち込み兄の足裏や手のひら、そして腰などのマッサージを丁寧に行っていた。腰を痛がる兄に長男はちょっとした整体をした時もあった。〝あ~きもちいいな〟と兄が言うと、長男は〝こんなことで楽になんだったらもっと早くやってれば良かった〟と何度も繰り返しつぶやいていた。

そしていつからか私達も病室にいる間はマッサージをするのが当然のことのようになっていた。ある日兄は父に〝耳掻きして(耳掃除)〟と言ったそうだ。そのことを父は〝今度は耳かきしろって言ってきたぞ!仕方ないからめん棒でしてやったけど。あいつは昔っから耳かき好きだったからな〟と言って笑っていた。姉も父も兄も、病室にいる間は兄の体のどこかを触っていた。私は兄の大きい足をさすりながら、時々ポツリポツリと話かけた。ただうなずくだけだったり、そのまま気持ちよさそうに寝る兄の顔を見つめて、私は心の中で必死に何度もこう叫んだ。〝お兄ちゃん、絶対死なないでね〟

兄の足はいつ触ってもポカポカと温かかった。

4月10日。食事もほとんどとらなくなった兄は、おなかが苦しいと訴えた。便秘のせいでガスが溜まっているのか?それとも今度は腹水か?と私達は心配した。

何も食べないせいで急激に体力がおちていて、食べないから便も出ないしガスが溜まるのでは?と心配していた私たちは兄に〝少しでもいいから何か食べないとだめだよ〟と何度も話した。

そして4月11日、私に〝アップルジュースあったよな〟と言うので、私は冷蔵庫からジュースを出しストローをさして渡した。兄は冷えているジュースをごくごくと飲んだ。なんだ、少し調子でてきたな、と安心したのもつかの間、兄はこの後腹痛に苦しむことになる。医師より〝急に冷たいものを飲んだからでは?坐薬で便を出しましょう〟との指示があり、坐薬を挿入後おなかもすっきりした兄は腹痛も治まったようだった。

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再入院、家族の愛(8)

4月に入り、モルヒネを開始してからは呼吸困難になることもなく兄の状態は落ち着いていた。顔色も良く、血圧、酸素濃度、尿量も安定していた。調子が良ければ口数も多く、相変わらず〝暑い、暑い〟と言っていた。ただ、経口で再開した抗がん剤の影響で口内炎ができ、ますます食事の量は減っていった。これでは体力がつかないな、と私達は心配していた。

この頃は春休みの時期で、幸い私も長男も仕事柄、時間に余裕があったので病室にいる時間も多かった。長男は兄の病室の床に寝泊りしていた。姉は兄の仕事を代わりにするために付き添いをしながら、色々なところへ手続きに行ったり、今年小学校へ入る息子の入学の準備に追われていた。

兄は姉の忙しさを心配する一方で、姉にはいつも側にいてほしかったらしく、姉が病室にいないとイライラすることが多かった。そして私に〝○○(姉の名)は?何時頃戻れんの?〟と聞いてくる。〝仕事で○○さんのところに行ってるし、忙しいんだよ。でも○時までは来るよ〟と言うと、しばらくはおとなしくしていてもまた〝ちょっと電話してみて〟と始まる。私は仕方なく姉に電話をすることになる。

こういうやりとりが兄の入院中、何度もあった。そして病室に入ってきた姉に〝遅いぞ!〟とふてくされる兄はまるで子供のようだった。

4月3日。胸部レントゲンの結果、両方の肺に転移が認められた。以前は片方の肺のみだったのに、ガン細胞は私達をあざ笑うかのように兄の体の中で増え続けていた。担当医師には〝もって残り2週間程では。。〟と言われていた。それでも私達は最後の悪あがきだったのか、少しも諦めていなかった。必ず奇跡が起きるとだけひたすら信じていた。

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2006.05.13

再入院、家族の愛(7)

モルヒネを開始して、兄の呼吸は酸素吸入も継続しながらだいぶ落ち着いてきた。モルヒネが体に回り始めると、日中でもうとうとする時間が多くなった。

ネットや本でがん治療について散々調べていた私達はモルヒネについても素人ながら知識があった。兄にはできるだけモルヒネに頼らないでほしいとお願いしたが、また先日のような呼吸困難になることを恐れていた兄は苦痛を感じるとすぐに看護士を呼び、モルヒネの注入(一時的に流す量を増やす)を頼んでいた。兄はモルヒネが開始されていることも、私達がなぜそこまで注射を拒むのかも分からなかったと思う。

モルヒネを開始した頃、兄は私達が中国から取り寄せたがん細胞を死滅させるという漢方薬を飲み始めた。大学病院にいたころから、抗がん作用のあるお茶や水、メシマコブetc,を飲んでいた。この漢方薬は飲んだ直後から体が熱くなるらしく、どんなに寒い日でも部屋の窓を開けさせられるくらいだった。額に汗をにじませ暑がる兄に〝体温の上昇によりガン細胞は死滅するんだから〟と励まし、漢方薬がガンを殺しているんだ、と私達は確信していた。漢方薬は何とか気力で飲んでいた兄だが、食事の量はほとんどと言っていいほどなかった。朝は調子が良いらしく、パンやメロンを食べるも午後からはほとんど食べることはなかった。ある日、私に〝団子食う〟と言うので、え?とテーブルを探すと兄の友人がお土産に買った団子が置いてあった。入院中は甘いものを好んで食べていた。メロンは常に冷蔵庫に入っていたし、カステラやイチゴなど。あんこも食べたいとよく言っていた。

モルヒネの影響でうとうとしていることも多い兄だが、意識はしっかりしていて尿の量や指先で測る血中酸素濃度の数値は常に気にしていた。病室にいる間私は何度も何度も〝おしっこ見て(量を)〟と言われた。胸水が尿として排出できればいいんですよと医師に言われていたのを覚えていたのだと思う。

兄の尿量は看護士にも〝ずいぶん出てますね〟と言われるほど多かった。これも漢方薬が功をなしているんだ!と思っていたし、きっとそうだったと思う。

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2006.05.12

再入院、家族の愛(6)

見ていられないほど苦しむ兄を私達はどうすることもできなかった。

やっと担当医師が病室にきて、兄の状態を診る。そしてその後、姉と長男が看護士に呼ばれて病室を出ていった。苦しむ兄は〝何してんの、早く何とかしてくれ!○○(私の名)、早くもう一回先生呼んできて〟と言う。

この時、姉と兄は医師から兄の病状について説明されていたので、いくら私がナースステーションに行ってもどうすることもできなかった。数分後、姉と兄が戻ってきた。そして医師が兄に〝注射流しますからね、これで呼吸も落ち着いてきますから〟と言った。看護士がすぐに点滴を持ってきた。そしてこの日からモルヒネの継続投与が始まった。

病室の外で長男から先ほどの医師からの話の内容を聞いた。〝この1週間がヤマだと思います。ここから快復するのは難しいでしょう〟というような内容だったと思う。

病棟の片隅で私にこの話をする長男が初めて肩を震わせ泣いた。〝あいつ(兄)はがんばってんだ。ほんとにがんばってんだ。でもこれが限界かもしれない〟と泣いた。

いつもどっしりとかまえ、兄の病気に関しても常に前向きだった長男が泣く姿を見た私は不安と恐怖に押しつぶされそうになった。

兄の本当の病名を知らない母も呼ばなければ、ということになりこの夜母は病院にくることになる。

母には〝たいした病気ではないけど、手術をうけた。でも快方に向かっている〟とだけ話していた。市立病院にも一度だけ見舞いにきていた。

兄のこの状態を知ったら、母は大丈夫だろうか?と不安もよぎった。しかし、病室に入ってきた母は大きな声で〝○○(兄)、お母さんだよ!来たよ!しっかりね、がんばるんだよ〟と声をかけ、兄の手をしっかり握り、自分の頬でさすっていた。やっぱり母親だ。自分の息子が苦しんでいるときの母親の姿を私はしっかり目に焼き付けた。

子供を主人の実家に残してきている私はいったん戻ることにした。病室には姉、長男が付き添っていた。父と母は病院の家族控え室に泊まることになった。

そして、その夜11時頃、長男からの電話で兄の状態が落ち着いてきたことを知らされる。

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再入院、家族の愛(5)

再入院後、1週間が過ぎようとしていた。退院の予定はたたないままだった。

兄はベッドから自力で離れることも難しくなり、大学病院での抗がん剤治療も中止することになった。そして市立病院の担当医師より、〝大学病院の医師と今後の治療をどうするか、相談してきてください。現在の状態も決して良くないのでできれば早めに治療方針を決めたほうがいいです〟と言われる。

そして、私達家族は病室に兄を残し大学病院の医師に会いにいくことになる。遠くに住む長男も帰ったばかりだったのに、急遽こちらに戻って医師との面談に参加することになった。

3月28日。この日はとても1日が長く感じた忘れられない日だ。

大学病院の担当医師とアポイントをとり、姉、父、私は約束時間の午前11時に間に合うように車で出発した。朝にはみんなで兄の病室に寄った。兄は冗談を言って私を笑わせた。今思えば、みんなが大学病院へ向かうことが兄は不安で寂しかったのだろう。

大学病院の受付窓口の前で長男とおちあい、腫瘍内科外来へと向かった。しばらく待ったあと、私達は診察室の中へ通された。

医師の話はまたしても思った以上に厳しいものだった。言葉を慎重に選びながら、私達に分かりやすく伝えようとする医師の表情は今でも覚えている。話の内容は次にようなものだった。

〝全身に飛び散るがん細胞です。播種、、というんですが。本人の望みを奪いたくはないので、経口で抗がん剤治療を続けようと思います〟

姉が余命を聞いた。医師は少し間をおき〝数ヶ月、、、でも急変することも考えられます〟と言った。

悲しい涙なのか、悔しい涙なのか。涙が次々とあふれて止まらなかった。長男が〝私達は最後まであきらめずに代替療法などやりたいと思っています。相談することもあると思うのでよろしくお願いします〟と必死で医師に伝えていた。

この日は朝から道路がひどく混んでいたせいもあって兄の待つ病室に戻れたのは、予定よりもだいぶ遅れて夕方になってしまった。急いで兄の病室に向かいドアを開けると看護士が立っていた。〝え?何?〟と入り口で立ち止まってしまう。看護士から〝呼吸が苦しいそうなんです〟と知らされる。姉がすぐに兄の側に行き〝パパ、どうしたの?〟と問いかける。兄はベッドに横たわり、ひどく呼吸が苦しそうだった。〝頼む、早く、先生呼んできて〟と訴えるも、ちょうどその時間担当の医師は手術中だった。

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再入院、家族の愛(4)

市立病院に入院後、兄は呼吸が苦しいということで酸素吸入をしていた。そして胸部レントゲンの結果、胸水が溜まっていることが分かり、胸水を抜く処置を数回にわたって行った。

大学病院を退院する直前も胸水が溜まり、抜いているので、この時胸に針を刺すのは2度目だった。胸水を抜いた直後は元気が出てきたように見えても、胸水はたった1日でまた増えていった。この頃、姉と私はよくこう話していた。〝胸水、何とかなんないかなぁ。胸水が溜まらなくなる薬とかないのかな。他の治療も順調に進まないよね〟ガンに有効とされる様々な治療法を調べていた姉と私はなかなか快方の兆しが見えない兄の病状にイライラしていた。

この頃、私は姉の言葉にハッと目が覚めたような気持ちになる。病院の食堂で姉と昼食をとっていた時のことだった。姉は〝私はね、パパ(兄)のガン細胞を全部失くすために治療をさせてるの。あと1年とか2年生きられればいい、とかっていう考えはないから、パパにもとにかくがんばってもらわないと〟と言った。

私が目が覚めた気持ちになった理由は、心のどこかで私は兄が少しでも長くいきてくれれば、と思っていて兄のガンを完全に治すということは難しいと思っていたから。それから、兄をそこまで愛して全力で兄の病と闘う姉の姿にだった。この時私は、兄は幸せ者だなぁ、と暖かい気持ちになった。

でも、私達家族が兄のガンと闘おうと必死になればなるほど兄の病状は次第に悪化していった。

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再入院、家族の愛(3)

せっかく退院できたのに、また入院することになり兄は落ち込んだ。

数ヶ月前までは仕事をバリバリこなし、飛び回っていた兄は闘病中、自分の仕事のことに関していつも話していた。病室に訪れた私に〝早く仕事してぇな~。お客さんたちのところに行って色んな話がしたい。復帰したら、この病気をネタにもっとお客さん増やさなきゃな!ガン保険には入っていたほうがいいですよ!って言ったら説得力あるよな〟と笑って話していた。

入院後数日間、気持ちの浮き沈みがあった兄の姿に私達家族はまた焦り、元気づけようと懸命だった。弱音ばかり言う兄に父は泣きながら、〝辛いのは分かる。でもお前のことは絶対死なせない、これからもっと楽しませてもらわなければならない。だから治すためにがんばってくれ!食事も少しづつでいいからとって、体力をつけてがんばろう!〟と言ったのを私も涙を流しながら聞いていた。

兄の病気を知ってから、兄の前で涙を流してしまったのはこの日が初めてだった。そしてこの翌日、私と父がいる前で兄は姉に必死にこう言った。〝○○(姉の名)、俺はおまえが耐えられるならこれから治療をがんばる。おまえが今本当に大変なのは俺が知っている。俺の変わりに知らない人に会って、気をつかって。。。おまえががんばれるなら俺もがんばっから。治すから!会社のお客さんも出来れば減らさないでがんばっていけるか?〟と。。。姉は涙を流し、うなずいていた。

この日、私達は改めて兄の病状の快復を信じた。兄は治る。何年かかっても兄は絶対治ると思った。

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再入院、家族の愛(2)

退院して自宅に戻って10日がたった。

自宅にいても横になっていることが多かった兄だが、その体で力をふりしぼり、確定申告の手続きに一人で出かけ、申告を済ませたというから驚いた。私達家族は、兄に早く体力が戻り、ガン治療の次のステップへ進ませたいと思っていた。抗がん治療が上手くいくこともそうだし、第4のがん治療と言われる〝免疫療法〟もぜひうけさせたいと思っていた。

免疫療法はまだ実施できる病院も少なく、保険もきかない。うけるとなれば、関東地区もしくは九州地区まで行かなければならないし、費用も100万~200万はかるくかかる。でも、姉も父も長男も私もお金のことなんて本当にどうでもよかった。治るならどこにでも連れて行こうと何度も話し合っていた。

3月20日。兄はおなかが苦しいということで、市立病院を受診する。

術後、傷の手当てとおなかに入っている管の処置で市立病院には通っていた。傷の手当ては毎日行わなければならなく、大学病院に時間をかけて毎日通うのは兄の体力を消耗してしまうということで、近くの病院がいいでしょうという医師の勧めと受診に付き添う姉にもそのほうがいいのでは、という家族の意見もあり、市立病院に傷の手当てに通っていた。この日の診察時はおなかの管の不具合で苦しくなったんでしょう。という医師の説明があり私達もガン細胞が暴れだしたわけではないことにホッとしていた。そして、2、3日様子をみるために入院することになった兄。すぐに退院するはずだったのに、このまま家に帰れないなんて夢にも思わなかったよね、お兄ちゃん。

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2006.05.11

再入院、家族の愛(1)

兄が退院した。

私はほっとしたのか疲れていたのか、兄を病院に迎えに行った日の夜から発熱してダウン。急性化膿性扁桃炎で39度の熱が3日も続いた。

兄の家には毎日でも行こうと思っていたのに、たくさん話もできると楽しみにしていたのに。。。1週間くらい兄の家には行くことを控えた。兄の体は免疫力も低下していて、風邪にでもかかったら命とりになることは知っていたから。

体調も回復し、兄の家へ駆けつけた。ソファに座っていた兄は、決して元気そうには見えなかった。〝お昼は出前をとろう!〟と兄が言い出した。私と兄が小さいころよく出前を注文していた食堂が兄の家の近くに越してきたそうだ。兄は〝○○(私)はいつもカツ丼だったよなぁ〟と言って何だか嬉しそうだった。両親は共働きだったから、私は家に兄と二人でいることが多かった。

小さい頃、兄は妹の私をかわいがる気持ちの裏返し?で、恐がらせては泣かせたり、嫌がる私にプロレス技をかけてきたりと、とにかくうるさくて天敵のような存在だったので私はしょっちゅう泣いては〝お兄ちゃんに泣かされたぁ〟と両親に告げ口していた。それでも、そうやっていつも私にかまってくる兄が今も昔も大好きだ。

この日、あいにく食堂は定休日だった。〝んじゃあ、絶対今度食べさせっから!〟と兄が言った。そして〝少し横になってくるかな〟というので、私と父は〝また来るね〟と言って、兄の家をあとにした。そしてこの数日後、兄は市内の病院に入院することになる。

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